ガノンドロフ様大好き日記vol.75
場を変えて岩壁のほど近く。ヴァーバ達や先代からは龍の流刑地と呼ばれている、砂鯨の棲まう処。辺りになにもなく広くすり鉢状になだらかな砂丘が囲っているうえ、すこし東に進めばオアシスもあるので遠いこと以外は都合がいいのである。ガノンドロフ様は薙刀、俺は小刀を脇に置いて遊ばれていた。
斜面のほうに投げられて、転がり戻るままの勢いでガノンドロフ様へ飛びかかっては掴まれ児戯のようにぐるぐるぐるぐる。俺は遊ぶつもりなんて全くなく、真剣に、ガノンドロフ様から1本取るために挑んでいるが…ガノンドロフ様からは仕掛けないとされているにも関わらず未だ砂に塗れて転がることしか出来ていない!
「こ…こんなハズでは………」
何度目か、地に転がされようやく俺はへたりこむ。若干心が落ち着いてきて冷静な判断が下せるようになったのだ。愚直にまっすぐそのまま突っ込んだら片手間で斜面へ投げ込まれることになる。俺の腕が衰えた、ということももちろんお分かりになられているだろう、ガノンドロフ様からは動物にじゃれつかれている時のように適当に遊ばれていたのだ。
無駄な力を脱力しきってゆったりと構えていたガノンドロフ様は汗ひとつかかずに立っている。打ちのめされたように砂につま先を潜らせる俺の方を睥睨し眉を僅かに持ち上げ、しめやかに仰った。
「随分、」
「…はい」
「…衰えたな」
「ウ…………………。ええ、仰る通りにございます。」
結果的に大口を叩くことになってしまった。道具として責を果たすことも出来まいとあらば俺に価値は無いのだというのに。刃はすっかり錆びてしまったようだ。
だが、とガノンドロフ様は続ける。
「同時に無駄も削がれた。人を見て、人を知ったか。我の命令に従うはよい事だが意を酌み動く方がまだ、能がある」
「有難きお言葉…」
各々の獲物を片手に持ち、ガノンドロフ様はただ「来い」とだけ。短く返し俺は早速懐へ飛び込み――鳩尾を膝で打たれながらも辛うじて薙の柄を鞘で逸らすことが出来た。
ヴンと風を切って迫る刃を屈んで潜れば返す刃が迫る。それを弾く。攻めればくるりと躱されて、生まれてしまった隙を退いて埋め攻勢を凌ぐ。激しい剣戟。弾く度びりびりと衝撃が響いてくるが、もはやその感覚を伝えてくるのが腕なのか心なのかが分らなくなるほど身体の中で心臓は躍っていた。
「守りに入っていては傷をつけることも叶うまい!」
「わ、かって、おります!」
突進して迫る槍先を半歩ずらして避け、俺が1歩更に退こうとしたことを悟ってか胴に蹴りが来る。身体のひねり、ガノンドロフ様の動作に合わせてこちらも動き背後から切りかかる。しかし柄で見事に防がれ、髪1本すら断つ事ができなかった。ガノンドロフ様から飛ばされる激に応え修正、改善、再構築、攻勢。的確な煽りを呑み込んで直せば自分でも動きがよくなっていくことが明確にわかる、楽しい。
俺の攻撃は全く当たらず、ガノンドロフ様はその剛躯を弾ませて容易く躱すのは変わらないが…自身では何か手応え、のようなものを感じはじめていたのだ。
次第に体が十全に動くようになってきた。高揚に身を預けるのではなく、理性を以て戒める。掴みや蹴りをいなして避けきれないものは受け止め流し、足元を刈るようにして薙がれる鋒先の柄の勢いに乗り背後から燕返し。一閃を走らせ、プツ、とガノンドロフ様の額から血が滲んだ。
俺はそのまま傾ぐ肩を蹴り越えて間合いを計る。心臓が耳の近くに上ってきたかのように拍動を強めて久しい。点々と打撲はあれど痛みなんてちっとも感じなかった。この胸を占めるのは、まだ俺は闘える、と心臓を震わせる愉しさである。霞に構え棟(むね)は地へ、刃先は天へ。切っ先で真っ直ぐに相対し一挙一動を睨(ね)めつける。
ガノンドロフ様も俺の事をジッ…と見、中途に上がったままの槍先を地に沿わせ下ろす。ゆるりとした動きですら舞踊のように一挙手一投足が見るものを惹き付け、堂々たる振舞いは真に王たる資質を持つことの裏付けを示すだろう。隙の一分もない武人としての極地にある佇まいは引力を持ち質量を伴う。洗練された動作というものは否応なしに目につくものなのだ。
傷口から溢れた鮮血は静かに頬を伝い、ガノンドロフ様の髭はより赤く染まっていた。
「彼方はどうだったか?」
どう、とガノンドロフの足下からおどろおどろしく赤黒の瘴気が地を這う。刃は流動するオーラを纏ってその軌跡を空に残した。
「富んでおりました。」
袈裟に振り下ろされたのを横跳びに躱す。先ほどよりも力強く振られ、また速くなったものだから躱すので辛うじてだ。
ガノンドロフ様は俺の言葉にウムと肯(うなづ)き続きを促す。
「鳥人や魚人、稀に巨人も見やいましたが……ああ、ヴォーイもヴァーイも同じほどおりました。やはり不可思議に思います」
「呵々、そうか。この広塵には百年に一度しか生まれんからな、見慣れることもあるまいて」
蹴りあげられた砂に目を瞑りながら俺は後ろへ手をつき転がった。どうやら正解だったようで身体の少し上を瘴気のあとが通過したのが分かる。そのまま1度身体を沈めくねらせてバネのように跳ね上がり、肩を極めようと組み付けど腕の一振りで振り払われてしまった。
「各地からものものが集まって交流も盛んに行われておりました。先代のころに…ラウルとソニアらしき人物が砂漠を訪れたでしょう、」
「ああ」
「鎮邪、破魔の行脚と祠を設置し邪を鎮め抑えたゆえに大陸全体から魔物も少なくなったそうです」
ガノンドロフ様の繰る瘴気はガノンドロフ様自身よりもよほど感情的に揺らめく。それは彼人を如実にあらわしていることは、ハイラルでは俺しか知らないことだろう。
ビョオッと風が強く吹きこみ、足下から砂が巻きあげられ一色の世界に変わる。深く身を落して頤(おとがい)へ居合を仕掛けれど、鯉口の音が届いてしまったのか受け止められ鍔迫り合いになってしまった。猪の獣面がしかと刃を咥え込む意匠の薙、その尺は俺の背を優に超す。ガノンドロフ様はそれを片手で容易く振るい、俺が全霊をかけて刃を押し込めど拮抗は一瞬で崩れてしまった。
「安穏たる泰平の世…我以外の統べる世なぞ不要である。」
忌々しそうに目を眇(すが)め、荒々しく薙刀を振るう。ゲルドを統べる王の素質を以て生まれたガノンドロフ様は満ちぬ渇望も持っていた。大いなる力に見合う傲慢、否、実力に裏打ちされた自負が覇道へ駆り立てるのだ。
「その通りです。貴方様以外の王など不要、ぬるま湯に浸り続けるなど耐えられませぬ」
ハイラル王国の繁栄。おしなべて誰も彼もが平和に呆けた国で一生を穏やかに暮らすなぞ、ああ到底耐えられない。三千世界に遍くガノンドロフ様の威光が蔓延るべきだ、俺はそう思う。
今後は大軍での意思統一、連携が肝要になる時代が近いことは感じている。がしかし、見たか、モリブリンですら複数人で相手取らなければ倒せない様を。弱いものが弱いままに良しとされ、のうのうと蔓延っている。全くを以てゆるす事が出来ないのだ。
混沌と闇に包まれた世、彼の方が統べ定めた則(のり)に添って動乱に身を預ける。其れの…其の、なんと喜ばしきことだろうか。野望を語る彼の方の見上げた横顔を今でも鮮明に思い出せて、俺はなお心震える。
幾度と打ち合いついに刃こぼれが見えた薙刀をガノンドロフ様は投げ置き、身体から滲み蠢く瘴気で太刀の形を縁取った。
魔力から生まれた黒鉄の刀身は鈍く光り乱れ刃文をなまめかしく見せた。ガノンドロフ様の操る瘴気は生命あるもの総てを平等に蝕み、朽ちさせるのだ。武器も例外はなく、鐡(くろがね)に呪いを用いたものでもなければ打ち合うことすら叶わず腐り落ちるのである。(強い光の力が込められたものならば、あるいは…?)下賜されたこの小刀はもちろん瘴気に耐えられるよう造られているが、刃に纏わせたものと瘴気そのものが形を成したものでは当たり前に濃さが変わる。
避けきれずに浅く切り裂かれた胴は黒く爛れ血は流れることなく塵となり消えた。傷口は雷に穿たれた瞬間よりも強く存在を主張し身体の内までも焼き付きそうなぐらいだ、けれど。これは、…。
「不思議です、貴方様の瘴気がまるで…俺の体に染み込むように馴染んでいくのも感じられます」
瘴気で縁どられた太刀筋が空中に溶け消える剣戟の最中、俺の心のままに漏らせばガノンドロフ様は高らかに笑った。以前にも瘴気を受けたことはあるがジクジクと何時までも膿むような、根付く痛みが印象に残っている。それが、無いのだ。身体に錆のような痕は残れど痛みはすぐに風化する。
お前は適合しつつあるのだとガノンドロフ様は仰った。瘴気に親しみ、ついには呑み下されたそれは時と共に身体に馴染んだ。故お前の身体は侵食されるのではなく溶融しようとするのであると。それは、あなた様と溶けあうも同じことではないですか。言えない言葉をつぐむ。ガノンドロフ様の眦(まなじり)は弧を描き、砂塵の中であっても判るほど。
足元に広がる瘴気はじわじわと、しかし確かに俺の体力を蝕み段々息切れをするようになってきた。いまいち攻めきれない膠着にひとつ大きく隙が見えて、いや、間違いなくこれは罠だ。しかし愚を侵さずして何を獲られようか?どうにでもなれ!と、深く踏み込み切り込むならば、飛んでくるだろうと思っていた膝打ち、拳のひとつさえ無いまま俺はガノンドロフ様の背を長く斬り裂けた。
血が吹き出しガノンドロフ様の背、サラシ、俺の身体を赤く染める。
…
キン、と重い鍔鳴りの音。余韻に陶酔していた俺の意識は冷たく清かな音で目を覚ます。
「ガノンドロフ様ーぁ!傷から砂など入ってはいませんか!」
纏う瘴気と共に空気に霧散した太刀。薙刀を取りに向かった赤い背に投げかけると首肯がひとつ返ってくる。
穂先を布に包んで帰ってきたガノンドロフ様と共にオアシスまで歩く。ガノンドロフ様は頬と真赤の髭をより赤黒く染め、広い背は深紅に彩られてある。俺はと言うと…あちこちに黄色、赤紫、青黒い痕と瘴気で萎えた腹に脚。もし手合わせを気絶するまでやると言うのであれば、俺とガノンドロフ様であれば死と隣り合わせになってしまうから大きな一撃を合図にやめることになっている。なので満身創痍未満で終わらせるのだ。
何となしに尊顔を見上ぐれば影に隠れほとんどその表情は窺えない。結われていた長髪は飾りを外され、歩みに合わせて揺れる赤の隙間からは逞しい背中とぱっくり裂けた傷が覗いた。ガッチリと鍛え上げられた肉体。
ああ、俺もいつかこうなれたら…!常々そう思う。たとえこれ以上背が伸びないとしても、だ。俺も筋肉はあるが、持って生まれたもの自体にまず差があるのだからそうはなれないと分かっていても…ガノンドロフ様のようにこの薙刀を片手で取り回せるようになれたならば、あの八角の金棒をお持ちする事が出来るようになれたらばどれほど助けになれるだろうか。俺の背では、俺の力では腰に提げて両手で支え歩くことしか出来ないのだ。何かあった時に(そもそのようなことは無いと思うのだが…)ガノンドロフ様を十全にお支えする事に、この身を以てしては一抹の不安が拭いきれないという歯がゆさをずっと抱えている。
もし、ヴァーイらのように上背でもあったら…もし、ガノンドロフ様のように剛健の肉体があったならば…。いつの齢からか、ガノンドロフ様と手合わせをした後は自身のままならなさと不甲斐なさに歯噛みすることが増えた。俺には足りないものばかりが多すぎる。ずっと。すぐ傍であっても聞こえないよう、ゆっくりと息を落とす。温かな砂の感触を踏みしめる。俺を置いて少し離れ歩くガノンドロフ様の歩み…は早くなったのではなく、単に俺の歩幅だけが小さくなっていた。
熾火はまだ、胸のうちに在る。が、後ろぐらい気持ちが砂のように覆っているのだ。王国で多くのものを識った、ある意味で幾月か前の純粋とも言えたあの心持ちは永遠に失われた。もしかしたら、目を逸らして見ないふりを続けることが出来なくなってしまっただけなのかもしれない。
俺は、ガノンドロフの刃となって動くことしかできない。それだけ、…それだけだというのは痛いほど理解している。
水のにおい。ほんの少しの湿り気を帯びた砂の中。オアシスは傾斜のある砂丘ひとつぽっち乗り越えたすぐ傍に佇んでいた。